鬱投稿の意義
- 恵琳
- 2022年9月4日
- 読了時間: 2分
皆さんはSNSで鬱投稿をしている人をどう思うだろうか。面倒臭がってブロックするだろうか。無視するだろうか。「そういう投稿はやめろ」と言うだろうか。
私は、鬱投稿する人たちにはできるだけ積極的に慰めの言葉をかけようと思う。
かつて私はこのような内容のことを複数の人から言われたことがある。
「お前は自分を責める鬱投稿を連発して慰めの言葉を期待しているようだが、他人はお前を慰める機械ではない。甘えるな。他人を利用するな。ブロックする。お前なんかと付き合ったら時間の無駄だ」
当時の私は相手の言葉に一種の「冷たく揺るぎない、刃のようなシャープな正しさ」を感じて自分を強く責めたが、今ではこの言葉がいかに弱者に冷たく厳しいかよく分かる。
正直鬱投稿を連発している人に慰めの言葉をかけるのを面倒臭がる自分もいるが、そう考える私だって鬱投稿を連発して他人から面倒臭がられている。だからお互い様だ。
鬱投稿をする相手に対して「人を慰めマシーンとして利用するな!」とは絶対に言えない。もし言ったら、ただでさえ弱っている相手をさらに深く傷つけることになる。
相手をブロックするのも忍びない。なぜなら相手は慰めてくれる相手を一人失うことになるのだから。それが原因で相手が死んだらどうするのだ。
「死にたい」とつぶやいただけで「殺してあげましょうか」と殺人者が囁いてくるこの社会では、確かに「鬱投稿をするな」というのは、自衛のためという意味では半分正しいかもしれない。
しかし、悪いのは鬱投稿をする人ではなく、優しい仮面を被って忍び寄る殺人者だ。
安心して「死にたい」「苦しい」と言える世の中のほうが生きていて楽ではないか。
これからも鬱投稿をしている人を見たら、できる限り優しい言葉をかける所存である。暇人だからできることなのかもしれないが、暇人にしかできないことをこれからもやっていきたい。
優しい一言が、命や社会を救う場合だってあるのだ。
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こういう文章も、安っぽい、月並みな、教科書的な、お題目的な、優等生的な、くだらない、無価値な、どこにでも転がっている駄文として見る人がいる。私の文章なんて、すでに他人が言ってることの焼き直し、いや、劣化コピーだし。
もっと斬新でパッとするようなものが書けるように精進します。本を読みます。ニーチェを読みます。色んな人と交流して視野を広げ、経験を積み、自分の価値観や言動の誤りを正したいです。不束者ですがどうかよろしくお願いします。
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