興味・共感の対象の偏り
- 恵琳
- 2022年12月4日
- 読了時間: 4分
太宰治さんの孫娘の石原燃さんのフェイスブックページを見つけた。やっぱり太宰さんや津島佑子さんと同じく弱者への優しさに満ちている。羨ましい。天才だ。私もああいう優しい心を持ちたい。
多分私の先天的な気質は弱者に冷たいものだと思うので、後天的な学習――アウシュヴィッツ生還者プリーモ・レーヴィさんや、日本の被差別民について研究した網野善彦さん、そして、歴史小説家で奴婢や傀儡女のような身分の低い人々もいきいきと描く澤田瞳子さんなどの本を読んで、「地べた目線」を獲得すること――によって優しさを身につけるしかない。それでも彼らには及ばないだろう。
人はそれぞれ違うのだから全く同じになろうとしてもいけないが、太宰治さん、津島佑子さん、石原燃さんの優しさは大いに見習うべきだ。
私は発達障害者、両性愛者、共産主義者、アジア人である。要するにナチスに殺される側の人間だ。それにも関わらず、ショア被害者であるアンネよりも加害者であるヒトラーに対する思い入れの方が強い。
アンネには月並みな共感しかできないのに、ヒトラーには「精神障害や性機能障害がある低学歴者で、しかも元ホームレスという弱者男性なのに、弱者を痛めつけるなんてかなしいなあ」と涙を流すほど強い思い入れがあるのである。
自分のこの感性は多数派とは違うので、今までずっと「被害者という最も弱い存在に対して月並みな共感しかできない自分はだめだ」という劣等感に苛まれている。
私の中では「攻撃者との同一化」という防衛機制が働いている。
私は親に望むだけの愛情を与えられず、兄やクラスメイトらに黴菌扱いされていじめられたが、彼らに歯向かうのが怖くて、「加害者は悪くない。いじめられる私が悪い」と決めつけてしまったのである。そして、自分が被害者であるというのを認めたくないので、自分が社会的弱者を見下す加害者になることによって、被害者意識から抜け出そうとしたのだ。
それゆえに、いじめや犯罪の被害者よりも加害者の方により強い興味と共感を覚えてしまう癖が付き、結果として犯罪者を好きになる性的嗜好「犯罪性愛」を身につけるに至ったのである。
社会的弱者を見下してしまう自分にほとほと嫌気が差していた中2の頃に、歴史の授業でヒトラーを習い、「この人は自分と同じように弱者を見下していたんだ。もう私は一人じゃない」と思って彼を好きになってしまったのは、その性的嗜好のゆえである。
一方、誰かを傷つけて、被害者にそれを強く非難されて絶縁されたら、明らかに100%自分が悪いのに被害者を責めたくなってしまう。要は「100%自分が悪い」「誰かのせいにしたくても自分のせいにしかできない」という状況が耐え難くて、そんなくだらないことをしてしまうのだ。
要するに私は、事実を事実として認められないとても弱い人間である。弱いから強がるのだ。本当に強い人間は強がらない。
まあ私のような変わり種も、加害者のエイリアン化を防ぐために必要だというのは分かる。しかし、ヒトラーを「弱者男性」と位置づける発言をしたら、被害者からの非難は避けられないだろう。
私は非難に耐えられない弱い人間だから、そういう際どい発言をする資格はないかもしれない。しかし、言わずにはいられない。言うのを我慢できるほど強くないから。
弱い自分が本当に情けなくて嫌になるが、無理矢理強くなろうとしたら壊れてしまう。だから無理をしないことだ。それが自分を正しく見つめ、現状を正しく認識するということだから。
ところで、私は個人にばかり注目して、背景にある社会情勢に注目するのが苦手である。私がそのような視野の狭い人間になったのは、うちの母親にも原因があるのではないかと思う。
母親は「子供の不調の原因は母親にある」という思想に感化されており、「社会を変えるために頑張ろう」などとは一言も言わない。むしろデモなどの社会運動を毛嫌いする保守派である。「生活が苦しいのなら仕事をもっと頑張れば良い、賃金を上げろとデモをしてもなかなか変わらないだろう」と言いそうな勢いだ。
このような親の元で育ったので、個人の病の背景に控える社会の病に目が行きにくいの。これは元彼に何度も言われた。「お前は個人ばっかり見て社会を見てへん」と。
なので私も色々と欠点を抱えた青二才であり、大いに改善の余地がある。これからも沢山の失敗や愚行を繰り返すだろう。
人を傷つけると非難される。それによって傷付けた者も傷つくのである。誰かのせいにしたくても自分のせいにしかできない。本当に辛いが、自殺してしまったら被害者への当てつけになってしまう。
なので死にそうになったら、橋の上の花束を思い出してなんとか踏みとどまるしかない。辛いときは友人と話して気を紛らして、なんとか死なないように、命を永らえさせるしかない。
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