私の脳内人物AとBの対話 2021/12/14
- 恵琳
- 2021年12月14日
- 読了時間: 3分
A「差別をやめたくてもやめられない人はどうしようもない悪人だから差別してもいいのだろうか。施設等に隔離するのが正しいのだろうか。治療は可能なのだろうか」
B「分からない。でも『差別する人はライブハウスに来ないでください』という対応をする人を責めるのは気が引ける。
差別者の隔離や特定施設からの排除は被差別マイノリティを保護するために必要だという意見もあるだろうが、それは所詮マジョリティとマイノリティの分断であり、隔離施設は強制収容所と同じではないか?
治療法は今の所確立していないし、確立するかどうかもわからない。差別者と被差別者の隔離は有効なのだろうか?
もしかしたら差別者はマイノリティと関わらなくなったら差別心があまり浮かばなくなるかもしれない。しかし患者によっては、隔離施設で普通に過ごしていても差別について考えて苦しむだろう。そういう人は生きている限り差別の苦しみが続くのだから、安楽死が有効だろうか。しかしそれはナチスの障害者安楽死作戦に通ずるものがあり、非常に危険だ。
差別に関する記憶やマイノリティへのマイナスイメージをピンポイントで消す薬や治療法があればいいのだが、今のところはそんな薬も治療法もない。人間の脳はパソコンのように単純ではないのだ。いらないファイル(記憶)を消せば解決する問題ではない。消えてほしくない記憶まで消えたりして、どこかで必ずガタが出るはずだ」
A「どうしても差別をやめられない人を差別障害者と呼んだら差別の被害者に失礼ではないか?」
B「そうかもしれない。差別の被害者なら『私を差別したくせに被害者面しないで』と言いたくもなるだろう。しかし差別障害という概念は確かに存在する」
A「それは所詮悪を正当化するための手段なのだろう?」
B「そういう目的で差別障害という概念を悪用する人も出るだろうが、本来は違う。
人は誰しも差別心を持っている。言ってみれば誰もが差別障害者なのだ。しかし、差別心は人によって程度が違う。人間の中でも差別心が特に大きく、それに悩み苦しんでいる人を差別障害者と呼びたい。
発達障害に関しても同じだ。私達は誰しも予定の急な変更を嫌い、嫌なことがあるとパニックを起こし、強烈な光や音や匂いに敏感だ。だから私達は誰しも発達障害者なのだ。しかしその中でも特にその傾向が強い人たちが発達障害者と呼ばれる。ただそれだけのことだ」
A「ネトウヨやネオナチは差別障害者に含むのか?」
B「ベルガモのトップには『ネトウヨやネオナチは差別を悪と感じないから差別障害者には含まない』と書いた。しかし今になって意見が揺れてきた。
ネトウヨやネオナチの中にも差別する自分に嫌気が差している人や、左翼から『劣った存在』として位置づけられて『俺は差別されている』と苦しんでいる人、あるいは左翼に厳しいことを言われて自分を『劣った存在』とみなしている人もいるかもしれない。
これからもっと研究していきたい」
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