犯罪者の実名報道等について
- 恵琳
- 2021年7月16日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年8月10日
障害者殺傷事件の被害者支援団体が、こんな投稿をしていた。
『「死刑囚表現展2020」における相模原障碍者殺傷事件実行犯の「作品」の展示はそれ自体がヘイトクライムであったと考えます』
このページの中には、「加害者の名前をどんなメディアにも露出させるな、犯行の動機についての加害者の自己中心的な言葉を伝えるな」とあるが、本当にそれでいいのだろうか。
被害者と連帯することの大切さは分かる。加害者より被害者の方に優先的に同情し、しっかりとケアすることの大切さもわかる。加害者の自己中心的な言葉は注釈(批判)付きで報道した方がいいと思う。植松聖のヘイトスピーチにまみれた作品を展示することにも断固反対だ。気分が悪い。 ただ、加害者の名前や言葉を隠蔽することで、加害者が人間扱いされなくなり、遠くに隔離された存在、いわゆる「透明人間」になってしまうのではないだろうか。 被害者を守り、連帯するために、加害者の名前や言葉を一切報道しないという姿勢には違和感を禁じ得ない。 私も発達障害者の一人として、彼の名前はできれば聞きたくないが、メディアで一切報道するなとは言わない。でもそう思うのは、きっと私が他の人に比べてそんなに傷ついていないからだろう。直接の被害者でもないし。
それにしても、加害者のことを知る必要は、一切ないのだろうか。加害者の証言はゴミなのだろうか。 被害者の事だけを知って、加害者のことは全く知ろうとしない――そういう態度は嫌いだ。被害者の事だけしか知ろうとしないなら、事件の半分しか知ったことにはならないと思う。 知りたくない人は無理しなくていいが、加害者の事も知らなければ、犯罪心理についても分からないし、事件の再発防止策も練られない。 果たしてこの投稿は被害者ヘイトだろうか? 私が犯罪性愛者で、犯罪者に同情したり、恋愛感情や関心を抱きやすいのは、果たして悪だろうか?
私は10歳ごろから、テレビに映る犯罪者に対して恋愛感情が湧きおこるのを感じていた。そしてそれを必死に抑えていた。 ヒトラーに恋したときもそうだった。そしてなぜか、ヒトラーに対する恋愛感情は、他の犯罪者への恋愛感情と違って増幅していった。そして今に至るわけだ。 私は普段から善人面していたから、それがしんどくて、悪が好きになったのだ。そして悪をなす者たちにも親近感を感じて好きになる性的嗜好を手に入れてしまったのだ。 誰かの悪い面(特に差別的な面)を知ったら急に親近感がわいてしまう。「ああ、私だけじゃないんだ」と。そして場合によっては好きになってしまうのだ。 この性的嗜好を公言したら本当に危ない。まさに自爆テロを起こすようなものだ。それなのに犯罪性愛者のネットコミュニティなるものを作ってしまったのだから、私は一体何様なのだろう? 私がヒトラーへの恋心を公言できるのは、ユダヤ人の友達がいないからだ。私はユダヤ人の友達を作って、ヒトラーが好きだと言えない状況に自分を持っていくべきなのかもしれない。 でも苦しい……。
やっぱり犯罪性愛者ってマジョリティであり、加害者だよなあ。セクマイの面ももちろんあるけど。
追記:パートナーとこの投稿について語り合ったら、次のような意見をいただいた。
「加害者の言葉は、ありのままに報道した後に討論して内容を批判した方がいい。被害者の言葉も加害者の言葉も両方伝えるべき。注釈をつけて報道するという姿勢は特権的だ」
「加害者の名前を出すと被害者への人権侵害だ。それに本来犯人の名前は判決が出て刑が確定するまで公表してはいけない。もし裁判で無罪だった場合大変なことになる(無罪なのに、社会から犯罪者の烙印を押されて差別される)から。刑が確定したら制裁の為に名前を出してもいいと思う」
私もそれが正しいと思う。自分だけの偏った意見にこだわってはいけないな。
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