犯罪性愛の作法
- 恵琳
- 2021年8月24日
- 読了時間: 4分
更新日:2021年10月5日
犯罪性愛の気質は犯罪者への同情を生む。一見いい事のように思えるが、度が過ぎると被害者の軽視や犯罪の正当化につながる危険性がある。残念ながら私も被害者の証言に興味を持ちづらい傾向があるので、本当に気を付けないといけない。
人によって興味の対象は違うとはいえ、もっと真剣に被害者の話を聴くべきだ、加害者の話と同じように。被害者の話も加害者の話も両方大切だ。被害者の話しか聞かない人も、加害者の話しか聞かない人と同様におかしいし、偏っていると思う。
反政府デモの時ももっと真剣に怒れるように、加害者への怒りを強くすべきだ。他の反政府主義者仲間のように、もっと理不尽に対して怒りたい。悪い政治家やグローバル資本主義に対する私の怒りは、他の仲間よりは小さいものに違いない。怒りがもっともっとあれば、もっと真剣に政府の悪行に興味を持ち、情報収集もするだろうし、得た情報をちゃんと覚えておけるだろう。それがデモでの完成度の高いアピールにつながる。
私はデモをしているときに葛藤を感じることがある。自分の中にも悪があり、悪い政治家に対して「辞めろ!」とシュプレヒコールをしていると、自分も職場を辞めるべきではと思ってしまう。私は意志の弱さゆえに言うことをコロコロ変えてしまう信用ならない奴だし、差別心も根深くある。自分に悪い政治家を非難する資格、辞めさせる資格があるのかどうか疑わしくなる。
他者の悪を追及するという事は、自分の悪を追及するという事でもある。私の反差別運動の原点は、差別してしまう自分への罪悪感である。その罪をそそぐために、いい人になるために、私は差別に反対しているのである。被害体験が反差別の原点になっている人もいるが、私の場合は加害体験が原点である。その点で私は加害者と連帯しやすい。
私がヒトラーと連帯するなら、「差別をしてしまう愚かで哀れな人間」としてである。「虐待の被害者」「貧乏人(ヒトラーの場合は「元」貧乏人)」としても連帯できるだろう。
決して彼のことをリーダーとして崇拝してはいけない。そんなのは愚の骨頂、時代遅れ、野蛮への回帰である。ヒトラー崇拝者は一体何がしたいのだろう。今の時代にすべきことが全く見えていない。誰かが、いや私達一人ひとりが彼らの目を開かせないといけない。
私は犯罪性愛者であることを明かしたらいじめられたことがある。本当の姿を見せたらいじめられるという点で、様々なマイノリティと連帯できそうだ。しかし私は10歳ごろから、「この世ではこういう人が差別されている」「この人は実はマイノリティである」と知った途端に、差別心が湧いてしまうという最低な癖がある。その差別心が、マイノリティとの連帯心を汚すのだ。
差別心さえなければ、もっとうまくやれるのに。本当に嫌だ。もどかしい。その差別心が悪への同情につながり、私は犯罪性愛者となった。同情レベルで済んでいるのならまだいいが、犯罪の正当化につながったら最悪だ。そうならないように気を付けたい。
私自身、発達障害者としていじめられた体験があるが、被害者意識より加害者意識の方が強い。もっと被害者としての自分を意識し、差別心をなくしていけば、被害者とも共苦・連帯できるだろう。そうなれば反政府主義者・共産主義者として完璧だ。
社会レベルで見たら、被害者を最優先すべきだし、一番彼らを守るべきだ。しかし個人レベルで見たら、私のように加害者に同情する人もいていいのだ。誰からも同情されない人なんて痛々しすぎる。
差別心をなくすには、マイノリティについて知り、正しい知識を得て、自分で自分を教育せねばならない。また、私は幼いころから、他人の失敗は許せるのに自分の失敗は許せないという自分差別をしていた。それが他人差別にもつながるので、自分に優しくすることが大切だ。そして、私は昔から「常にいい子でいなければ」と強く思いすぎて、心の底で「悪い事がしたい」という思いが膨らみ、差別心を抱くようになった。なので完璧を求めないことも非常に大切だ。
私は幼いころからこういう問題を未解決のまま引きずってきた。だからそろそろ解決しないといけない。大人になれよ、私。もう22歳なんだから。
フイリンさん、自分を縛り過ぎや。