敗戦の日に釜ヶ崎で涙する
- 恵琳
- 2021年8月16日
- 読了時間: 4分
更新日:2021年8月22日
昨日八月十五日は敗戦の日だった。日中はツレとカフェに行ったり映画を観たりして、反戦平和活動とは関係ない事ばかりしていた。
夕方ツレと別れた私は、大阪の細工谷というところにある、朝鮮・韓国・在日関連本を集めた小さな人権図書館「猪飼野セッパラム文庫」というところへ、とある社会運動の署名済みの署名用紙を取りに行った。しかし不思議なことに全く見当たらなかった。ただ、未署名の署名用紙が挟まったチラシが六枚ほど見つかったので、釜ヶ崎の「ゲストハウスとカフェと庭 ココルーム」へ持って行った。あそこなら様々な人が常にいるし、もしかしたら署名が集まるのではと思ったのだ。
しかしココルームのシャッターは閉まっていた。(しまった、閉店か)と思ったが、シャッターの横のドアから男の人が出てきたので、私は「こんばんは」と声をかけた。男の人は「あ、こんばんは。今から慰霊祭行くけど、恵琳さんも行く?」と訊いてきた。私は疲れていたが、敗戦の日らしいことをしたかったので、「はい!」と答えた。
そして私はココルームの中に入り、署名用紙の挟まったチラシをテーブルの上に置いた。一人の若い男性に「それ、もらっていいですか?」と言われたので、署名の趣旨について説明した後、チラシと署名用紙のセットを一枚あげた。他の人のおしゃべりによると、どうやら慰霊祭は「三角公園」というところでやるらしい。私は行き方が分からなかったが、他の皆と一緒に行くから大丈夫だと思った。私は署名の内容と締め切りを書いたメモを書いて、上から重しのティッシュ箱を載せた。そして若い男性と若い女性と三人でココルームを出発した。
三角公園では、たくさんの屋台が出ていた。釜ヶ崎の写真展をやっている屋台もあった。私は二人から離れて、カレーの炊き出しの屋台に向かった。容器さえもらえばおかわりはし放題だ。所持金のほとんどなかった私は嬉々としていた。
しかし屋台のおじさんは左の方を指さして、「あっちにおる、ざるを持った人のところに行ってください」といった。私は言われるがままにざるを持った二人の男性のもとに行った。すると男性は「百円です」と言った。しかし私はお金を53円しかもっていなかった。
男性にその旨伝えたら、男性はちょっと考え込んだ。すると、誰だか忘れたが近くの男性が「お金のない人のための炊き出しなんだから、タダにしてやろうよ」と言ってくれた。なので私はただで炊き出しのカレーを食べることができた。ちなみにもう一人のざるを持った男性は、私に「割り箸はどう?」と訊いてきたが、私は「マイ箸あります」と断った。実際に私はマイ箸とマイスプーンを持ち歩いている。そうして私は、三角公園の片隅のベンチでカレーを食べた。
あまりの辛さと熱さに苦戦しながら食べていると、遠くのステージから、哀しいギターの音色と男性の歌声が聞こえてきた。歌詞は聞き取れなかったが、とにかく人生の哀しみを歌った曲なのだろうな、と思って聴いていた。
きっと若いころウィーンのホームレスだったヒトラーも、路上でひもじく暮らしながらも、たまにこういう慈善団体の炊き出しのご飯を食べていたのだろうな、と思った。ヒトラー自身も凄まじい苦しみを受けて生きていたのだ。
それなのに、彼は自分が受けた苦しみを他者に味わわせた。しかも何百万倍にも増幅させて。ヒトラーが苦しめたのはユダヤ人だけではない。障害者やロマ、同性愛者、共産主義者、エホバの証人信者などのマイノリティだけでもない。一般のドイツ人、ヨーロッパ人もだ。彼は人々にひもじい思いをさせ、戦争・差別・虐殺を行い、ヨーロッパ中を地獄にしてしまったのだ。
被害者でありながら加害者になる人は、どうしてそうなるのだろう。私自身も発達障害者でありながら人を差別してしまう人間なので、不思議で仕方ない。そういう人間が救われるには被害者の痛みへの想像力と連帯が必要だと思う。しかし私は被害者の苦しみを想像し、彼らと連帯したからといって差別心が消えたわけではない。一種の精神障害か脳の機能障害かもしれない。一体どうすればいいのか。
きっとヒトラーは地獄の底で永遠に近い苦しみの時間を過ごすだろう。しかし、仏教の教えによると、地獄には必ず終わりがあるという。だから今は、ヒトラーがしっかり刑期を満了してくれることを願うしかない。
戦争で亡くなったすべての人に合掌。彼らが安らかに眠れるように、戦争に突き進む不正だらけの菅政権や、政権を操るグローバル資本主義と闘っていかねばならない。
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