奪われた野を取り戻す
- 恵琳
- 2022年3月3日
- 読了時間: 2分
ツレから聴いた生まれたての「脱植民地化思想」をもとに文章を書いてみた。
奪われた身体(心+体)、奪われた未来、奪われた友情、奪われた幸せを取り戻すことが、脱植民地化。 日帝が在日朝鮮人を差別するということは、その人の身体、名前、土地、文化を奪うということ。その人の生きる未来、その人とともに生きる未来を奪うということ。その人と結ばれるかもしれなかった友情を奪うということ。その人の幸せを奪うということ。 永山則夫も、銃で人を殺したことによって、殺された人の身体を、生きる未来を露骨に奪い、その人とともに生きる未来やその人と結ばれるかもしれなかった友情を奪い、幸せを奪ったのだ。 人を傷つけ、殺すことは植民地化と同じである。 そして人を傷つけ植民地化することで自分も傷つき植民地化される。自分を傷つけ植民地化するのは誰か。自分かと思っていたがツレはこう答えた。 「自分を傷つけるのは広い意味での体制やな」 体制とは社会の差別的な価値観やおざなりな福祉などのことだろう。加害者も被害者と同じく、社会の犠牲者なのだ。
かつて朝鮮を植民地化した日本人も私も、社会にはびこる差別的な考えに未だに洗脳されている。そして幼い永山則夫が母親によって、小さなきょうだいとともに網走の家に捨て置かれ、厳しい冬を越さねばならなくなったのは、福祉制度による助けが不十分だったからだ。 だから脱植民地化とは、反差別、犯罪防止、福祉の充実であり、それは被害者だけでなく加害者も救うことを意味する。社会から差別や犯罪をなくし、福祉制度を充実させ、金儲けでなく人助けを優先する社会を作ればいいのだ。 私も自分が救われることを考えていいのだな。いちいち自分を苦しめる必要などないのだ。「差別は原罪だ、どうしようもない」などと言って思考停止・自己正当化してはならない。差別や抑圧や犯罪に反対し、苦しめられている人たちを助けることが、ゆくゆくは自分を救うことにつながるのだ。 マイノリティの生きやすい社会は、みんなが生きやすい社会なのだから。
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