多様性への恐怖
- 恵琳
- 2022年3月29日
- 読了時間: 1分
私は過去の差別の記憶に大いに影響され毒された者なので、もしこの列島に移民が増えて、大和民族が全人口の半分以下になったら、正直生きづらくなると思う。
こんなことを書いたら外国人が非常に怒ると思うし、一部の人からのブロックも免れないと思うが、差別してしまう当事者が自分の心理を語った文章が世の中には少ないと感じるので、書くことにする。
一般的に「多様性」は尊いもの、喜ばしいもの、楽しいもの、面白いものという肯定的なイメージで語られる。黒人、セクマイ、障害者、様々な人がいるからこそ世の中は面白いのだ、素晴らしいのだと。しかし私は、そういう雑多な社会に恐怖を感じる。こういう人はどうすればいいのか。
やはり異質な他者に徐々に慣れていくしか方法がないのではないか。卵アレルギーの人が卵を少しずつ食べてアレルギーを治していくように、私もシナゴーグへ安息日の晩餐会に出かけ、ユダヤ人と少しずつ交流していこうと思う。彼らからヘブライ語や聖書を教わるのも良い。ただ、はじめはショアの話はしないようにする。あまりにも重苦しいからだ。
いや、非常に重要な指摘やで!
新しい学問の息吹を感じるわ。
わしは、エリンさんに、おれの議論に突っ込めや!と説教する前に、ベルガモ読んでエリン思想に突っ込んだら良かったんや。
わしが間違うてたわ、悪かったな!^^;
で、多様性が怖い、な!
多様性は素晴らしい、が結論としては間違うてないと思う。
しかし、それまでの途中があるがな。理想までの、半理想というか、皆が「現実」と開き直るあれな。
哲学では、媒介という。
数学では、解答だけ書いたらだめで、途中式をも要求される。
なんなら、九州まで歩いていくとき、岡山の宿も手配がいるがな。
この、媒介として、いまの時代の多様性嫌いがあるし、
なんなら差別は間違いやが、いま現に差別はあるがな。
これも、媒介や。
弁証法でいうたら、対自・反や。
大事な研究対象や。