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報復は存在しない

  • 執筆者の写真: 恵琳
    恵琳
  • 2022年9月4日
  • 読了時間: 3分

「君がしたことを、誰も君に二度とすることはできない。見よ、報復などというものは存在しないのだ」

(ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』佐々木中・訳 河出文庫 2015 p.342 7-8行目)


昨日まで私は「元友人にプライベートメッセージをブログに晒されてよかった。これで私が起こしたプライバシー侵害事件の元が取れたのだ。よくぞ報いを受けたな、ざまあみろ私」と、心の重しが取れたような、軽やかに喜ばしく、一方で意地悪く自嘲するような気分でいた。

しかし、元友人がやったことと、私がやったことは同じではない。だから私の罪の元が取れるなんてことは決してないのだ。私は死ぬまで十字架を背負って生きるしかないことは確かだ。辛いけれど。

因果応報って嘘なのか? 仏教って間違ってるのか?

まあやはり宗教も古くて保守的なものだから、克服されねばならない何かであることは確かだ。私は「南無阿弥陀仏」の暖かさなしでは生きられないニーチェ読者だが、それでもいいのだろうか。

いつかはめちゃくちゃ強くなって、自分だけを頼りにして、宗教なしでも生きていけるようにならねばならないのだろうな。

おお辛い。

ごめんなさい、やっぱり私はニーチェにはなれない。でも逆にそれでいいのかも。個性を大事にすべきだし。

でもとりあえず、「こんな最悪な自分に報復したい、いじめてやりたい」という恐ろしい欲は捨てなければと思う。自分いじめさえやめられれば大したものだ。「自分を傷つけたい、いじめたい」という欲をコントロールする強さがほしい。どっしりと肝っ玉の据わった人になりたい。

もし自傷したとしても、そんな自分をまた叩くのでなく、不完全な自分を慰めて抱きしめてあげられる慈悲が欲しい。

私は自分に慈悲をかけるべきだ。


追記


私は被害者のためを思ったら楽になってはいけないのかもしれない。楽になることと、苦しみ続けること――被害者が加害者に願うのはどちらなのだろうか。

それは個々人や時と場合によって違うだろう。私に傷つけられた被害者が、私にどうあってほしいと思っているのかなど、今は知る由もない。


おお、なんと厳しい世界だろう。私が生きる世界は。他者の人権をズタズタにした加害者が生きる世界は。被害者とのいかなる対話も和解も成立しない世界は。


だから人を傷つけてはいけないのだ。


「あなたは神聖です。ですから、あなたを神聖に保ちなさい」というユダヤ教の教えがまた蘇った。その声は厳しく、暖かい。結局宗教も捨てたものではないな。


追記2


元友人は私のメッセージをブログに載せる際、こちらの実名もアカウント名も出していないし、節度を守って私のメッセージを公開した。だから私は被害者でもなんでもない。そして私の晒しの罪は一生消えないというわけだ。

 
 
 

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