ツレの哲学をちょっとご紹介
- 恵琳
- 2021年9月8日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年12月2日
私は見下そうと思えばすべての人間を見下せてしまう。非常におぞましいことだ。しかし全てのマイノリティは私と同じ「資本主義の被害者」である。それゆえ連帯できる。私はくだらぬ感情を捨てて、全ての人間と連帯して資本主義を倒さねばならない。
そう考えたら楽になると思いきや、「連帯したいと考えなければいけない」「私に連帯しようと言われたらマイノリティは気分が悪かろう」と苦しくなってしまう。
それをツレに相談したら、こんなことを言われた。
「人を見下す感情は捨てんでええ。そういう感情がある時点で、恵琳は資本主義社会の被害者や。心は社会やねん。脳の機能障害もあるやろな。脳(肉体)は自然や。身体(肉体+精神)が社会や。自然と社会は連動してるから、脳の機能の問題はデカルト心身二元論のように社会と切り離したらあかん。脳の機能つまり自然構造は、俺の客体一元論の意味において、社会構造と密接な関係にある。今の『身体の中に精神がある』というのは、別の言い方をすれば、『社会の中に自然がある』という意味や。自然を社会と独立のものとみなす、今はやりの環境主義、自然主義は間違いや、糞や。俺は、アンチネイチャー、反自然や。グレタも自然主義に行ったらあかんのや。自然主義は糞じゃ!」
そして私はツレの言葉を書き残した。
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近代哲学=デカルト哲学
肉体=客体
精神=主体
これは肉体と精神がバラバラの二元論
ツレ哲学
身体(肉体+精神)=客体
精神=主体
身体の中に、その一部として精神がある 一元論的客体主義
恵琳はデカルトの『方法序説』ぐらい読んだらええわ
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ツレが言っていた「社会の中に自然がある」というのは、こういうことだ。
例えば私たちは、自然の風景、例えば赤いもみじの木を写真に撮る。すると四角いフレームに収まった紅葉の写真が出来上がる。それを私たちは「自然」とみなすわけだが、本来自然は四角い枠になど収まっていない。それは加工された自然である。本当の加工されていない自然はもっと広く壮大で、私たちには知ることも感じることもできない。言ってみれば私たちには関係のないものである。
そして私たちの生きるこの社会(人間関係、反省=人間が自分を振り返ること)の中に、その「加工された自然」があるのだ。だから社会の中に生きる人間は、「加工された自然」である。
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社会とは何か
①自己反省(一人関係)
②二人関係(二匹の蛇が互いにシッポを飲み込む図=ウロボロス)
2は1の発展形
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ツレは、反自然・アンチネイチャー・自然批判。ツレのいうアンチとは、否定でなく批判の意味。
つまり否定とは「お前死ね」の事であり、批判とは「お前これあかんからもうちょっとこうしようや」という意味である。つまり、否定し去るのではなくて、大事やからこそ今後の発展の為に語り掛けるのである。
例えばマルクス主義はアンチエンゲルス主義。つまりエンゲルスは大事。
客体主義は主体批判。社会主義は自然批判または資本批判または政治批判または理性批判。これは全て全体による中心批判。国土による首都批判。つまり、中心は中心テーマ。という意味は、全体にとって、中心は一番大事。東京やっぱり大事。あるいは東京あるいは社会の中の子供あるいは憎まれっ子あるいはキリストにとってのユダ(裏切り者、エンゲルス)。
東京ってユダなんや。大事なんや。
ユダの福音書は、「ユダがキリストの弟子の中で一番大事やった」という内容のもの。お釈迦様にとっての提婆達多(デーヴァダッタ)。
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難しい……でも為になる。
資本主義や社会主義について知りたい方は『NHKテキスト 100分de名著 カール・マルクス 資本論』(斎藤幸平・著 NHK出版)をお読みいただきたい。その後同じ著者の『人新世の「資本論」』(集英社新書)をお読みになれば、さらに理解が深まるだろう。
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