2023.2.21深夜の愚痴
- 恵琳
- 2023年2月21日
- 読了時間: 3分
私は「自分ならいじめても逮捕されないから」という理由で、自分を絶えず脳内で(たまに小声で)罵っています。卑劣な弱い者いじめです。ナチそのものです。
そしてそんな自分を「ナチ死ね」と罵るのですから、堂々巡りです。どうしようもありません。
道を歩きながら自分を小声でグチグチ罵って、あまりの辛さに思わず「ギャアッ」と叫び声を上げたり、おいおい泣いたりします。通行人は心配そうに私を振り返ります。心配されているのがなんだか嬉しいですが、悪い人に攻撃されないか不安です。
私は元彼にもその自傷癖を指摘され、私がなかなか改善しないので、よく怒鳴られていました。
そして怒鳴られたあと、元彼に「あんたは俺にもいじめられて自分にもいじめられて可哀想やな」と言われました。
彼は私に優しくすべきことを分かっていましたが、なかなかできないようでした。彼は心のぎごちない男です。私がそばで泣いていても何も感じないそうです。彼はスタスタ歩きたくてもぎごちなく足を動かすしかない人に似ています。彼も彼で大変だったのです。
ちなみに元彼はよく私を「仏様」「キリスト」と呼びました。「優しくて、元彼が脳内悪魔に苦しめられているときにすぐによしよししてあげるから」「ソロモンの錦(王様の綺麗な服)よりも一本の野百合を愛するから」というのがその理由です。恋は盲目、買いかぶり、という言葉が思い浮かびますが、褒められたら正直嬉しいです。
私はまあ矛盾だらけの人間ですね。優しさも残虐さも併せ持っています。自分でも自分がよく分かりません。よく刑務所に入らずに暮らせているなあと思います。
周りの人にきつくされればされるほど、私の中のいじめっ子は私腹を肥やし、強くなっていきます。
人に吐かれた暴言を、そのまま自分に吐くのです。
恐ろしい話です。生きれば生きるほど、いじめっ子が強くなり、私という人間も汚れていくように思います。
早く死んでしまいたいです。
私は加害者意識の強い人なので、ヒトラーのような加害者に感情移入しやすいです。
中2の秋にヒトラーに恋する前は、人を差別する心に苦しんでいるのは私だけかと思いましたが、歴史の授業でヒトラーについて習うと、彼のことを「同じ病気で、なおかつ私より症状の重い人」と感じて、「私はひとりじゃない」と安心しました。それが恋のはじまりだったのです。
また、私はヒトラーや永山則夫などの殺人者であっても、彼らが罪を犯した経緯を調べ、「加害者にも事情があったんだな」と感じて同情します。
加害者意識の強い私は、いじめられたときにそんなに強く抵抗できません。「私だってこんな悪いところがあるじゃないか。私にこいつを責める資格はない」と考えてしまうのです。
「加害者に優しい」「加害者をそんなに責めない」という点では、私はDV男の餌食になりやすいと言えます。悪人に優しくする人はそいつに支配され利用されてしまいます。「こいつ優しいから殴っても大丈夫だろう」と思われるのです。
だからといって、悪人を容赦なく打ち据えて高笑いしている人を全面賛美しているのではありません。かと言って安倍を殺した山上徹也さんに喝采を送るのもやめられない。難しいです。
先程私は、「いじめられたときにそんなに強く抵抗できません」と書きましたが、案外、辛いときに泣いて暴れられるだけの強さ、図太さ、傍若無人さがあります。それがあるから、路上で発狂して意思表示・感情表現ができるのです。弱そうに見えて案外強いと言えます。
しかし一方で、いじめられて死ぬほど辛くても、「人様の迷惑になるから」と恥と外聞を気にして泣けない人、暴れられない人もいるのです。
その人はとてもいい人です。この汚い世間で真っ先に押しつぶされてしまう、可憐な花のような人です。私とは比べ物になりません。
こんな人が安心して生きられる世界を作らねばなりません。
そんな世界はきっと私の生きやすい世の中でもあるはずです。
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